現代は「心と体の時代」だと言われる。そこで台頭してきたのは「心の癒しビジネス」と「体の健康ビジネス」である。そうしたビジネスを積極的に後押ししないまでも、少なからぬ影響を与えるのは、厚生労働省が2000年につくった「健康日本21」、国民の健康づくり計画かもしれない。しかし、今のところ「健康日本」の目標達成は難しいらしい。なぜ難しいのか。その答えの一つのヒントをもらったリポートを紹介したい。
「健康になれるのだったら、死んでもいいという迷言がある」という書き出しからはじまって、「野口体操はからだのクオリアを発見する体操である」と結ばれている。
順序が逆になったが、一昨年から授業を持っている大学の4年生が書いたもので、この大学では「東洋的フィットネス」という全学共通カリキュラムで、私は野口体操を中心に授業をすすめている。これは今年1月に提出された期末リポートである。
なるほどと思える新しい視点をもらったのは、次のフレーズによる。
QOLつまり生活の質を向上させるためにも健康を求める人が多くなっている昨今、その結果として健康を提供しようとする側の動きも活発になっていると指摘する。そこで、彼は、「それらを否定する気はないが」と断って、次のように書いている。
「健康を求める手段が、金を払って買うというだけに留まってしまうことは、消費者根性というか、あまりにも生産性が欠如しているような気がして、なんだか悲しいものである」
健康を買う消費者という視点は、今まで考えてもいなかった。健康も商品になりうる時代が到来したのか。野口体操を伝える身としては、なんとも迂闊だった。町のなかにコンビニが何軒もあるように、「心と体のスペシャル健康癒しメニュー」と称して、健康商品を売る店が、街の角々に当たり前の風景として増殖してくるとき、「癒し産業」「健康産業」なるものが、定着するときかもしれないと想像すると空恐ろしいものを感じる。
はたしてそれが、ストレスに負けない健康な心と体の時代を約束しうることなのだろうか。商品としての健康を買う消費者には、薔薇色の人生が担保されるとでも言うのだろうか。
確かに、「健康日本21」の調査結果を見るまでもなく、今を生きる私たちの生身のからだは置き去りになっている。それにつれて、心も虚ろになってしまっている。そのことが昭和40年(1965)を境に、農林漁業から他の産業への転職がはじまって、工業化が本格化し、更にIT化が加速したことに起因するとしても、パソコンを捨てて田舎暮らしはできないのが実情だ。確かにそうした生活に同調する機運が生まれていることもある。しかし、現実的には、週末だけでも体を使って自然のなかで生きる時間を持つことは難しい。もっといえば田舎暮らしを選択すれば、確実に心と体の健康が得られるものなのだろうか。
なんとも奇妙な話になってきたが、ここで提案したいことはひとつ。
自分自身の「からだの田舎・こころの田舎」を、生活の場にいながらにして、探してほしいということ。なぜなら自然は外にあるだけでない。私自身の体も心も自然そのものだ。そして、その自然の内部には、荒ぶる神も存在する。赤鬼青鬼も存在する。私たちは、そうしたネガティブなものを受け止め、しっかり見届け、身体のうちに宿しながらも、それを鎮める心と体の確かさをもちたい。そうした考えも、一つの自然観・健康観ではないかと思う。
「心と体の時代」とは、自分自身で心身を耕し、創造的に生きるQOLを、一人ひとりが創りだす時代であってほしい。それには「自然律に根ざした身体文化」のあらたな創造が不可欠だと思っている。