たかが逆立ち されど逆立ち



羽鳥操 

大修館『体育科教育』2000年


 早春、男性雑誌をいただいた。タイトルが『今年こそ運動神経を良くしたい!』。送ってくださった方の顔と動きが目に浮かんで、思わず「さにあらん」と、彼の思いを受け止めました。表紙には、赤い大きな見出しの文字の脇に、小さく『脱・運動音痴』と書かれていました。


 私も運動音痴の一人でした。幼稚園から始まってすべての学校生活のなかで、体育と運動会ほど嫌な時間はありませんでした。そんな私が体操に目覚めたのは二十代も半ば過ぎのことです。


 ある日、ピアノリサイタルが近づいて、あまりの心身の緊張し過ぎをなんとかせねば、と思いたったのが運命の分かれ目でした。初めは体の硬さを解消したいために体操を始めたのですが、人生のターニングポイントは十年目に訪れました。それは生まれて始めて逆立ちが出来た日のことです。それまで逆立ちは、地獄の一丁目に突入するような恐ろしさがありました。ところがその日は力づくでなくまっすぐに立てたのです。もちろん優しく幇助してもらっていましたが、無理やり立たせるやり方ではなかったので、腰がふわーっと浮き上がって、えも言われぬ浮遊感を自分のものとした喜びに全身が満たされました。それから壁に寄り添って頭だけで立つ逆立ちの格別の味を知りました。目は床から数センチの高さにあります。床を這うように生きるゴキブリや小動物の目線とはこうしたものなのか、と気付いた時の驚きは、それまで味わったことのない新しい感覚から得られたものでした。草原で直立二足歩行を行った人類とは、逆の視点をもつことができたのです。もちろん、視線をもっと上に持っていけば天井も大空も見えます。幼いころに親や友達や先生に『運動神経が悪い』というレッテルを張られたばかりに、動きの楽しさや気持ち良さを知らないまま人生を終わる方も、かなりの数いらっしゃるはずです。それは実に勿体ないことと、今では思っています。


 こんなエピソードがあります。あるコンサートでの出来事です。バイオリニストで後に指揮者となったメニューインが、ステージに登場しました。人々の目は指揮台へと登る彼の姿を追います。指揮台に上がるやいなや、彼は軽ろやかにヨガの逆立ちをしました。唖然とした聴衆は何が始まるのか、と固唾を呑んでいました。するとどうでしょう。足で指揮を始めたのです。爆笑の渦が拍手にかわりました。実は、どんな名演奏家でも、舞台に立つときは、強度なストレスに晒されますが、メニューインは精神統一のための手段としてはじめたヨガで、パフォーマンスをおこなったのです。人の意表を突くちゃめっけは、音楽を超えてかけがいのない喜びを人々に与えました。そしてゆとりある聴衆は、彼のユーモアを心から楽しみました。


 このように手段が手段を超えてはばたいたとき、目的や効果を超えます。体ほぐしは体ほぐし、逆立ちは逆立ち、指揮は指揮、ダンスはダンスという境界線を突破らったとき思わぬ視界が拓けます。混乱の時代だからこそ、丸ごとのからだで楽しむ体操や舞踊や音楽や美術や工芸や演劇や、つまりからだの実感に根差した人間同士のコミュニケーションを伴う「からだ文化」が、真価を発揮するチャンスの時だと私は現代を捉えています。「たかが逆立ち・されど逆立ち」今を覆う閉塞感の突破口は、一人ひとりのたかが・されどの感覚を見直すことに隠されているのでは……。

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