2011年6月17日
野口三千三のことばより
『野口体操とは、自分のからだの実感を手がかりに、「自然とは何か、人間とは何か、自分とは何か」を探る営みである』
『私は地球物質であり、地球のすべての生きものや無生物はみんな血縁関係にある。自分の「いのち・からだ・こころ」と呼んでいるものも、大自然の神から「一時預け」されたものなのである』
『「よい動き」とは、自然の原理に合った動きである。それは水や空気や植物などの動きの原理と共通なもので、素直で安らかで懐かしく、もともと当然のこととして在る』
『人間の創造は、自然の範囲内で行われるべき、ささやかでつつましやかなものではないだろうか。たとえささやかでつつましやかなものであっても、そのものやことに大事に触れ合うことによって、無限の豊かさと新鮮さを生み出す能力が与えられている』
◆ スポーツとの比較:スポーツは、はっきりした区切りや枠組みから成り立ち、レベルの違いこそあれ、日常から脱してある種の虚構(空白)を作り出す。それはそれの楽しさがある。野口体操は、「超」の世界ではなく、「常」の世界に根をおろした身体を目指している。勝ち負けをこえたところで“からだに貞く”営みである。競技スポーツが、自己を主張し、世界に能力を誇示するのに対して、野口体操は、その時・その場で得られる実感を大切にしながら、自然のなかに溶け込むことをゆるしていく。むしろそうしたあり方を自分のからだの内側に創造していこうとする体操である。
◆ 価値観:“からだへのまなざし”と“関わり方”の違いは、ものの見方、仕事の仕方、暮らし方を支える価値観の違いだとも言える。競技スポーツは数値化を伴った成績中心の近代産業社会の価値観と結びついている。更にくわえれば、フィットネスは「成績中心の近代社会」における修正的意味をもっている。
◆ まとめると、目的効果を言わない野口体操は、兵士を養成し生産性を上げることを目的とする身体観から脱し、「脱・競争社会における体操」の一つの具体的方法を持った身体文化である、と捉えてみたい。文明を後戻りさせるのではなく、〈全球時代〉の未来に持続可能な社会を約束するため、身体に落とし込んだところで“意識改革”を試みるものでもある。
宇沢弘文著 岩波新書696 第7章「地球環境」第1節「人類史における環境」伝統的社会(例:インディアン、マサイ族)と近代を比較し、「自然」「文化」「宗教」の捉え直しを行っている。
『自然環境を経済学的に考察しようとするときに、まず留意しなければならないのは、自然環境に対して、人間が歴史的にどのようなかたちで関わりを持ってきたかについてである』208㌻
『ルネッサンスは人間の復興であったが、それは自然の凋落を意味している』213㌻
『自然の手段化は、アダム・スミスの経済学によって、その極限の段階に入っていった。そこでは、自然だけでなく、人間自身もまた、経済的利益の追求の前にその尊厳性を失って、すべてが生産手段として、経済活動の手段を果たすものとなっていったのである』214㌻
『社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利益追求の対象として市場的な条件によってのみ左右されてはならない』201㌻
第6章 「社会的共通資本としての金融制度」http://www.af-info.or.jp/blueplanet/doc/slide/2009slide-uzawa.pdf
◆ 野口体操でいうところの「身体」は、社会的共通資本の「自然環境」「社会的インフラストラクチャー」「制度資本」のすべてに関わりをもつ、と看做すことができる。“身体の価値観”は、それらすべての根幹にあるもので、賢いからだを育てる手だてとして、「野口体操」の社会化の道を私は探っていると気づかされた。
例えば、環境問題は国家や企業の責任で、個人の領域ではないと思われがちだ。しかし、社会を変革できるのは、本当は個人ではないか。個が変わらなければ地球大の問題は解決されることはなく、文明そのものが崩壊する。「個が変わる」ということは、「からだのあり方が変わる」ということ。“何が美しく、何が幸せだ、と感じる”その感じ方が変われば、意識は自ずと変わる。「意識以外のものが変わるとき、初めて意識が変わる」と、野口体操を通して私は学んできたのだと思う。